会社案内・スキー場のご案内
会社案内
社 名 | 株式会社 野沢温泉 |
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資本金 | 69,000,000円 |
設立日 | 平成17年7月14日 |
会社所在地 | 〒389-2502 長野県下高井郡野沢温泉村大字豊郷7653番地 |
目 的 | 1. スキー場の経営 2. 一般労働者派遣事業 3. 不動産の売買賃貸・仲介及び管理 4. 旅行代理店業 5. 普通索道・特殊索道に係るメンテナンス請負業 6. 前各号に附帯する一切の事業 |
スキー場のご案内
夏季営業期間 | 令和6年7月6日(土)~令和6年10月27日(日) |
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スキー場総面積 | 785ha/総コース面積297ha |
最長滑走距離 | 10,000m (毛無山頂→やまびこ→上ノ平→パラダイス→林間) |
標高 | トップ:1,650m 標高ベース:565m 標高差:1,085m |
最大斜度 | 39度 |
コース構成 | 初級:40% 中級:30% 上級:30% |
ゲレンデ&コース数 | 36コース・ゲレンデ |
野沢温泉スキー場 環境への取り組み
・ESG/SDGsの推進 100%再生可能エネルギー
「信州Greenでんき」導入
2024年10月1日より、長野県企業局が運営する水力発電所等で作られた100%再生可能エネルギーであり、長野県産CO2フリー電気である「信州Greenでんき」を中部電力ミライズ株式会社より調達し、長坂ゴンドラリフトにおいて利用を開始。当該拠点における2023年の使用電力量は912,443KWhであり、従来の火力発電を主とした電気からすべて水力発電由来によるCO2フリー電気に置き換えることにより、年間約384トンのCO2の削減を見込んでいます。気候変動については、スキー産業の一端を担う当社といたしまして大変大きな課題ととらえており、また、地球環境保全のための人類共通の重要な課題の一つと考えております。これまでもエネルギー使用量やCO2排出量の削減に努めており、2024年12月から小水力発電所を稼働させ、長坂センターハウスにCO2フリー電気を供給します。今回、さらなる取り組みの一環として「信州Greenでんき」を導入し、地元産CO2フリー電気を活用することにより、気候変動に関連するSDGs「気候変動に具体的な対策を」へのさらなる貢献につながるものと考えています。
天然雪を利用した雪室冷房システム
2013年12月にリニューアルオープンした新しい温泉施設「野沢温泉スパリーナ」に天然雪を貯蔵する「雪室(ゆきむろ)」 を併設し、 夏場は雪融け水によって作られた冷たい空気を温泉施設内のレストラン、リラックスルームに送り冷房設備としても活用しています。 また地元農産品の冷蔵にも使用します。
雪室冷房システムイメージ
この豊かな自然を未来へ
私たち野沢温泉スキー場では、この豊かな自然を維持し、地域の皆様や訪れるお客様にとってより良い環境を提供することを目指し、様々な環境への取り組みを行っています。 人間と自然の循環型社会形成と、豊かな環境を備えた未来を見据え 、「環境と共生し豊かに生きる」社会の形成を目指しています。 (チャレンジ25が生まれ変わりました Fun to Share )
資源のリサイクル
スキー場コース内には、土砂崩れ防止のため水抜きの溝が掘られています。この溝はスキー場コースを安全に維持するために非常に重要なものです。 しかしながら積雪量が少ないシーズン最初は、雪で溝が埋まらないためコースオープン遅れの原因となってしまいます。 そこで弊社では、使用済みのペットボトルを使用して溝埋めを行っています。
資源保護
スキーシーズン中に蓄積された野沢温泉スキー場内のゴミ拾いや、収集したゴミの分別に努めています。
グリーンシーズン中の森林の整備や森林保護活動を積極的に行っています。
再利用可能な製品の使用
スキー場直営のレストランでは使い捨ての割り箸を使用せず再利用可能な食器類を使用しています。
野沢温泉スキー場の歴史
スキー倶楽部誕生
大正12年(1923)12月8日、野沢温泉スキー倶楽部が創立された。
創設に賛同した会員は23名。入会金一円、年会費五十銭であった。
倶楽部は「スキーノ普及心身ノ鍛練及当温泉ノ発達ヲ図ル(会則より)を目的とし、技術練習・講習会開催・技術員招聘と派遣・技術研究・スキー場整備・スキー宣伝などの事業を行う団体だ。いわばスキーによる村起こしの先駆けである。そのころの冬の野沢温泉といえば近郷近在からの湯治客が来る程度で、大方はあけび細工や紙すきなどの冬仕事。 あとは雪との闘いであった。そんな状況の中で、ようやくそのころ学生の間に普及し始めたスキー客も、ぽつぽつ訪れるようになっていた。 スキーが縁で野沢にやって来た藤沢教諭の「雪国文化の開発はスキーに如かず」という奨めもあって、まず自分たちでスキー客を誘致しよう、と立ち上がった。
正式発足したスキー倶楽部は、早速誘致活動を開始した。大正13年1月には法政大学スキー山岳部員数人がスキー場の視察に来村、3月には12名の学生が初のスキー合宿にやってきた。 同じく専修大学、東京商科大学の学生も練習にやってきた。これが野沢温泉スキー場のスタートでもあった。 当時、全国にあったスキー場は三十九ヵ所、長野県では飯山と野沢温泉だけ。早々と学生スキーの合宿誘致に成功し、宿泊施設も揃ったスキー場として出発した野沢温泉。 その牽引車的な役割を果たしたスキー倶楽部の存在が、今日の競技スキーのメッカとしての野沢温泉を方向づけることとなる。
スキー場の飛躍
次々に学生スキー合宿の誘致に成功したスキー倶楽部では、大正13年には御犬山スキー場(現在のスキースクール日影本校横)に、翌14年には日影スキー場にもシャンツェを建設した。 学生達の要請で14年1月にはスキー倶楽部と法政大学スキー山岳部の主催で、 野沢温泉第一回スキー競技大会が開催された。 野沢温泉スキー場での初の大会である。
昭和3年(1928)には、日影スキー場に50メートル級の野沢温泉シャンツェを建設。 翌4年2月にはノルウェーのオラフ・ヘルセットの一行が野沢シャンツェを改造して模範ジャンプを披露、 コルテードが43メートルを飛んで日本での最高記録をつくった。 さらに昭和5年3月に、 スキーの神様とも仰がれたオーストリアのハンネス・シュナイダーが訪れ、高速のスキーのアールベルグスキー術の講習と模範滑走を行った。
これら外国の一流選手の指導で、スキー倶楽部メンバーの技術が向上しただけでなく、スキー場としての野沢温泉は大きくグレードアップした。
また、昭和5年の2月には第五回明治神宮体育会スキー競技会が開催され、大会事務局がスキー倶楽部事務所におかれた。 この大会で日本では初めてアルペン種目が採用され、滑降、回転、ジャンプ、距離、リレーの五種目が行われた。 このような一流外国選手の招鳴、全国規摸の大会の招致・運営などの表方・裏方もすべてスキー倶楽部である。 経験を積むごとにスキー倶楽部は各種の運営に自信をもち、野沢温泉スキー場も一流としての名声を博すようになった。
リフト経営にも乗り出す
ウィンタースポーツも年々盛んになり、昭和15年(1940)には、第五回冬季オリンピックが札幌で開催されることになっていたが、 戦争のため中止。 選手として出場が決まっていた片桐匡氏も無念の涙を呑むしかなかった。それでもスキーだけは戦争遂行に必要ということで追放だけは免れた。 スキー倶楽部でも戦技スキーの講習会などに参加するようになった。
そして、敗戦。平和な時代の到来を待っていたように競技スキーも復活する。 昭和23年3月には第三回国民体育大会スキー競技会兼第二十六回全日本スキー選手権大会が野沢温泉で開催された。
食糧事情も交通事情も悪い時代であったが、スキー愛好者たちが野沢温泉に戻ってくるようになっていた。 そんな頃進駐軍が志賀高原丸池スキー場にリフトを建設してスキーを楽しんでいた。 草津に民間のリフトが建設されたのを見た片桐匡氏は野沢温泉にもリフトを建設すべきだとした。
さまざまな障害を乗り越えて、昭和25年(1950)12月、日影スキー場に第一号リフトが完成。 スキー倶楽部は積極的にスキー場経営に乗り出していくことになる。 29年に第二リフト、34年に全長千1129メートルの第三リフト、 36年には上ノ平に第四リフトを建設。 次々にスキー場を整備拡充していった。
スキー場経営を村に移管
昭和30年代も後半になると、高度成長の波に乗ってスキーをレジャーとして楽しむ傾向が強まっていった。 スキー場にもファッション性や遊びの要素がもとめられるようになったのだ。 各地で新しいスキー場がオープンするようになり、 野沢温泉にも一般企業から開発目的の土地買収やリフト建設の申し込みが相次ぐようになった。
野沢温泉ではスキー倶楽部がリフト建設やゲレンデ開発・整備などスキー場を経営するという他に類を見ない歴史がある。 時代の趨勢を見極めていたスキー倶楽部では、この歴史と伝統が村外資本に撹乱されてはならないと、 昭和38年村当局と協議してスキー場の管理経営権を村に委譲ることに決定した。
経営権が村に移管され、以後のスキー場開発も村の手で行われるようになった。 このときスキー倶楽部と村は覚書を交わし、 選手育成や各種大会への選手派遣費用、大会開催の費用などを助成することに決定した。 これによってスキー場経営というハード部門は村が、選手育成などのソフト部門はスキー倶楽部が行うという「車の両輪」の関係が成立した。
野沢温泉出身の名選手
野沢温泉出身のオリンピック代表選手は数多い。
平成四年(1992)アルベールビル・オリンピック複合団体優勝のひとり河野孝典は、野沢温泉スキークラブ所属選手として初の金メダリストとなった。
金メダリストを育てるまでのスキークラブの長い選手育成の歴史の中で、昭和三十五年(1960)のスコーバレー、昭和三十九年(一九六四)のインスブルック、 昭和四十三年(1968)のグルノーブルの三回のオリンピックにクロスカントリーの選手として出場した佐藤和男氏も、 経済的にも補償されたなかでトレーニングができる実業団チームに所属していった。
大きな時代の潮流の中で、村とスキークラブは本格的に選手育成を考えるようになる。 その第一歩が、昭和四十一年に野沢温泉中学が札幌オリンピック強化指定校に選ばれたことだ。 それが、四十七年に野沢温泉ジュニアスキークラブ設立につながり、一貫した選手育成の基盤が整った。
さらに、平成二年(1990)から始まった村のスキー選手強化育成事業として実を結んだ。 野沢温泉スキークラブ所属ということで、選手は練習環境や経済的な面で全面的に支援を得て競技に全力を傾けることができるようになった。 生まれ育った野沢温泉を本拠にして、心おきなく練習に没頭できることで、河野孝典をはじめ富井剛志・森敏・高沢公治の各選手など世界で活躍する選手が誕生したのだ。
杉山 進 | スキー アルペン競技 1956年(昭和31年)第7回冬季オリンピックコルチナ・ダンペッツォ大会(イタリア) |
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富井 一 | スキー アルペン競技 1964年(昭和39年) 第9回冬季オリンピックインスブルック大会(オーストリア) |
佐藤 和男 | スキー クロスカントリー競技 1960年(昭和35年)第8回冬季オリンピックスコーバレー大会(アメリカ) 1964年(昭和39年)第9回冬季オリンピックインスブルック大会(オーストリア) 1968年(昭和43年)第10回冬季オリンピックグルノーブル大会(フランス) |
松村 元治 | スキー クロスカントリー競技 1972年(昭和47年)第11回冬季オリンピック札幌大会(日本) |
片桐 美雪(現:古川) | スキー アルペン競技 1972年(昭和47年)第11回冬季オリンピック札幌大会(日本) |
古川 年正 | スキー アルペン競技(北海道出身 現在野沢温泉在住) 1972年(昭和47年)第11回冬季オリンピック札幌大会(日本) |
富井 澄博 | スキー アルペン競技 1972年(昭和47年)第11回冬季オリンピック札幌大会(日本) 1976年(昭和51年)第12回冬季オリンピックインスブルック大会(オーストリア) |
片桐 幹雄 | スキー アルペン競技 1976年(昭和51年)第12回冬季オリンピックインスブルック大会(オーストリア) 1980年(昭和55年)第13回冬季オリンピックレークプラシッド大会(アメリカ) |
富井 剛志 | スキー アルペン競技 1992年(平成4年)第16回冬季オリンピックアルベールビル大会(フランス) 1998年(平成10年)第18回冬季オリンピック長野大会(日本) |
河野 孝典 | スキー コンバインド競技 1992年(平成4年)第16回冬季オリンピックアルベールビル大会(フランス) 1994年(平成6年)第17回冬季オリンピックリレハンメル大会(ノルウェー) |
西方 仁也 | スキー ジャンプ競技 1994年(平成6年)第17回冬季オリンピックリレハンメル大会(ノルウェー) |
森 敏 | スキー コンバインド競技 1998年(平成10年)第18回冬季オリンピック長野大会(日本) 2002年(平成14年)第19回冬季オリンピックソルトレークシティー大会(アメリカ) |
富井 彦 | スキー コンバインド競技 1998年(平成10年)第18回冬季オリンピック長野大会(日本) 2002年(平成14年)第19回冬季オリンピックソルトレークシティー大会(アメリカ) |
畔上 大地 | スキー クロスカントリー競技 2002年(平成14年)第19回冬季オリンピックソルトレークシティー大会(アメリカ) |
上野 修 | スキー フリースタイル(モーグル)競技 2006年(平成18年)第20回冬季オリンピックトリノ大会(イタリア) |
上野 眞奈美 | スキー フリースタイル(ハーフパイプ)競技 2014年(平成26年)第22回冬季オリンピックソチ大会(ロシア) |